かつてベンジャミン伊東として電線音頭で日本中の子供たちを熱狂させた伊東四朗(いとう・しろう)さん。最近はテレビなどで見かけることが少なくなり、引退した、とか極端な場合亡くなったというデマが飛び交ったりしています。たしかに伊東さんは既に80歳を超えていますが、ご健在です。今回は伊東さんの演技の源を探るとともに、嫁さんおよび子供に関する情報も集めてみます。

1.伊東四朗は健在で活躍中

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

伊東四朗さんはこれまでコメディアン、俳優、タレント、司会者として長年活躍されてきました。

一緒に活動された方々の多くがすでにお亡くなりになり、伊東さん自身も80歳を超えていますので、SNS上で死亡説が拡散されたりしています。

しかし、「伊東四朗オフィシャルウエブサイト」には活動予定が掲げられ、実際にテレビドラマに出演されています。

テレビ東京の『駐在刑事』ではおじいさん役でレギュラー出演されています。

たしかに多くのシーンに登場するのはもう難しいのかもしれませんが、伊東さんが登場すると何となく楽しくなります。

この項では、伊東さんのプロフィール、芸歴をたどり、さらに信条を明らかにしたいと思います。

 

(1)プロフィール

 

 

 

 

 

 

 

①戸籍名 :伊藤輝夫(いとう・てるお)

②生年月日:1937年6月15日

③身長・体重:166cm・73kg

④出身地 :東京府東京市下谷区竹町(現:東京都台東区)

⑤出身校 :東京都立市ケ谷商業高等学校

⑥著 作 :『この顔で悪いか!』(1997年11月、集英社)

『俺の三波伸介』(1998年12月、中央アート出版社)

『この顔でよかった!』(2003年9月、集英社)

『ボケてたまるか!』(2007年7月、集英社)

 

父親は静岡県の出身で、服地の販売に従事していた。

男、女、男、男、女の五人兄弟姉妹の四番目の三男として生まれた。

兄は教育評論家の伊藤竹三。

次男は俳優・タレントの伊東孝明。

(2)経 歴

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

①生い立ちから舞台役者まで

1937年 現在の東京台東区に生まれました。

戦時中は、母親の実家のある静岡県掛川に疎開しました。

1955年 都立市ケ谷商業高校を卒業し、就職しようとして数多くの面接を受けましたが、目つきが悪い、人相が悪い、という理由で不採用になりました。

最初の著作のタイトルが『この顔で悪いか!』になっているのも、この時の体験からきていると思われます。

1956年 伊東さんは早稲田大学の生協職員となり、時間ができると観劇に様々な場所に足を運びました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1958年 新宿フランス座の座付き俳優だった石井均が劇団「笑う仲間」を旗揚げし、この舞台を頻繁に見に来ていた伊東さんに劇団員から誘いがあり、「笑う仲間」の研究生になり、舞台に上がることになりました。

当時「笑う仲間」は浅草・松竹演芸場を拠点として活動しました。

伊東さんが浅草の大衆演劇の生き残りという意識を持ち、萩本欽一さん(欽ちゃん)など浅草出身のコメディアンと仲間意識を持っているのはこの時期の活動からです。

1959年 「笑う仲間」は石井ともう一人の共同主宰者との仲たがいから、数カ月で瓦解し、「石井均一座」として再出発し、拠点を新宿の新宿松竹文化演芸場に移しました。

 

 

 

 

 

 

 

伊東さんの最初の芸名は「伊藤証(いとう・しょう)」でしたが、師匠の石井均の勧めによって現在の「伊東四朗」に変えました。

「石井均一座」はそれなりに人気を博しましたが、2年ほどで解散することになりました。

②てんぷくトリオの結成と崩壊

一座の解散前、石井均は自分の劇団にいた戸塚睦夫を誘い出して夜間キャバレーの営業に出ていました(石井戸塚コンビ)。

 

 

 

 

 

 

 

しかし、石井は時間上の都合からこの営業を新宿フランス座座付きの三波伸介に譲りました(三波戸塚コンビ)。

 

 

 

 

 

 

 

 

戸塚は三波の時間が都合つかないときには同じ一座の座員だった伊東を相手代役つまり「三波伸介」にして営業をすることがありました。

1960年初頭三波が失踪し(のちに大阪にいたことが判明)、伊東はそのまま「三波伸介」の名で代役営業を続け、ステージも好評を博しました。

約1年後に三波が帰京した時、三波は戸塚とのコンビを復活させるのではなく、伊東を入れたトリオに再編することにし、営業先のキャバレー司会者には3人を「本当は伊東四朗、本当の三波伸介、本当に戸塚睦夫」と紹介させました(三波戸塚伊東トリオ)。

1961年石井一座が解散した後、伊東と戸塚はこちらを活動の主点に置くようになり(途中「ぐうたらトリオ」に改名)、三波がこの夜の仕事とは別に個人の仕事を展開する中で、テレビ出演の機会をつかみ、そのつながりで、1962年トリオ名を「てんぷくトリオ」に改名しました。

てんぷくトリオは、トリオブームの中心として元来の軽演劇経験を活かし、テレビや舞台で徐々に人気を獲得し、三波の「びっくりしたなぁ、もぅ」というギャグが大うけし、茶の間の人気お笑いグループとなりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

写真は左から伊東、戸塚、三波。

当時の伊東さんの顔つきはあまり角ばってはいなかったようです。

てんぷくトリオが世に出るきっかけになったものは三波の個人活動であったので、三波はトリオの活動を重視しながら、他の二人にも個別活動ができる能力の養成を求めました。

これを受けて伊東はダンスや楽器の練習などに打ち込み、演技の飛躍的向上を見せ、トリオ以外にも1968年後半には「てなもんや三度笠」(主演藤田まこと)のほぼレギュラーとなりました。

また1968年には作家井上ひさしがてんぷくトリオの座付き作家となり、てんぷくトリオの人気上昇に一役買いました。

 

 

 

 

 

 

 

てんぷくトリオとしての活動は、1972年から毎週日曜日(最初は土曜日)三波伸介が主演のNHK 『お笑いオンステージ』内「てんぷく小劇場」が代表的なものでした。

1973年に戸塚睦夫が42歳で死去し、てんぷくトリオの活動が困難になりましたが、伊東は三波と二人で「てんぷく集団」として活動を継続することにしました。

しかし、「てんぷく」の名称は残したが、伊東、三波それぞれ次第に個人活動のウエイトが増し、実質的には集団としての活動は休止状態となりました(1982年12月8日三波の急死により、「てんぷく」は伊東一人になった)。

 

③電線マンとして脚光を浴びる

1975年以降、三波伸介の意向により「てんぷく」名での活動を休止したころ、伊東四朗さんの存在は小松政夫さんとの共演で注目を浴びるようになりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『みごろ!たべごろ!わらいごろ!』での親子コントや「電線音頭」でのベンジャミン伊東、『笑って!笑って!!60分』での「小松の親分さん」などのネタでテレビの人気を確保するような状態になりました。

「ずん」や「ニン」、「どーかひとつ」といったギャグもおおいに受けしました。

特にサーカスの団長という設定でベンジャミン伊東として演じた「電線マン」は日本中の子供たちの心をとらえ、物まねがいたるところで繰り返されました。

子供たちは家では電気こたつを舞台に見立て、そのうえで電線音頭を踊ったので、こたつの故障が続出し、お母さんたちの嘆きが鎮まりませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ベンジャミンとしてのスタイルは、子どもたちだけでなく、藤田まことら古くからの喜劇役者にも「あいつは馬鹿になったのか⁉」と言わしめる程インパクトがあるものでした。

こうしてそれまで「てんぷくトリオ」のサブ的位置を占めていた伊東さんが芸能界の中心的位置を占めるにいたり、1979年にはTBS『ザ・チャンス!』の二代目司会者に抜擢されました。

④シリアスな俳優としての活躍

1977年 TBS系ドラマ『ムー』で渡辺美佐子さんの夫役を演じて人気を博し、以後ドラマ出演が多くなりました。

1983年 NHK連続テレビ小説『おしん』では、娘おしんにつらく当たる父親役を好演し、ドラマは大ヒットしました。

 

 

 

 

 

 

 

以後活動の中心を俳優業に置き、活動の領域を大きく広げました。

1992年から2015年までTBS系『十津川警部シリーズ』で警部補・亀井定雄役を一貫して演じました。

 

 

 

 

 

 

 

 

高橋英樹さんの十津川警部もよいですが、故渡瀬恒彦さんの十津川警部もきりりとしてカッコよかったですね。

渡瀬さんと伊東さんの名コンビがもう見られないのが残念です。

その他、伊東さんは、テレビ朝日系『笑ウせぇるすまん』(1999年)、『おかしな二人』(2002年)『おかしな刑事』(2003年-)、NHK『名探偵赤富士鷹』(2005年)、テレビ東京系『ぱじ~ジイジと孫娘の愛情物語』(2013年)、『残り火』(2014年)、フジテレビ系『出張鑑定人・宝来伝吉』(2014年)、『出張鑑定人・宝来伝吉2』(2016年)などで主役を演じています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

俳優業以外にはバラエティ番組の司会も多数担当し、日本テレビ系バラエティ番組『伊東家の食卓』には「お父さん」役で約10年出演しました。

⑤喜劇役者としての初心を忘れない

俳優として活躍するようになった伊東さんですが、自らが喜劇役者として出発した初心は忘れないそうです。

かつて喜劇役者仲間、友人であった戸塚睦夫、三波伸介だけでなく、東八郎、関敬六、渥美清、由利徹など浅草喜劇出身者たちが死没した後、浅草喜劇の伝統を次の世代に引き継ぎたいという願いと彼らの分まで現役で頑張りたいという思いが年々強くなっているそうです。

1997年 還暦を迎え、うえのような思いから三宅裕司小倉久寛さんらとともにオムニバスコントの舞台『いい加減にしてみました』を上演しました(2002年、2010年にも上演)。

 

 

 

 

 

 

 

 

2004年 同じ意図から典型的な喜劇・軽演劇の舞台を再現しようと『伊東四朗一座~旗揚げ解散公演』を上演しました。

この公演は強い反響・リクエストを呼び、翌2005年に『伊東四朗一座~急遽再結成公演~』を上演しました。

その後2006年、2007年には伊東さんが参加しなかったので、三宅らは「熱海五郎一座」を結成し、上演しました。

2009年には「伊東四朗一座・熱海五郎一座合同公演」が上演され、現在は年一回のペースで公演がなされています。

この他、伊東さんは、角野卓造, 松金よね子,佐藤B作・あめくみちこ夫妻らとともに「西荻窪エリアでお酒を飲みながら語らう会」(西荻の会)を結成し、この会を中心に2011年に本多劇場で介護コメディー『ロング・ロスト・フレンド』を上演しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2014年 喜寿(77歳)を迎え、本多劇場で『吉良ですが、何か?』を上演しました。

2017年傘寿(80歳)を迎えましたが、芸能活動は衰えず、2018年になっても『親父熱愛』(文化放送)など連続番組に出演するとともに、紀伊国屋サザンシアターでコントライブ『死ぬか生きるか!』を上演しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まだまだ伊東さんの活躍を期待したいと思います。

(3)逆境を超えた生き方

 

 

 

 

 

 

 

 

 

伊東さんの経歴を要点だけ取り出して見てみると順調な歩みのように映りますが、個々の場面では決してそうでなかったことが「芸能界の重鎮・伊東四朗が語る、『逆境を超えた生き方』」(『withnews(ウイズニュース)』2015年1月9日号)で語られています。

このインタビュー記事で伊東さんは、三波伸介さんが亡くなった時の衝撃を語られています。

私は人づきあいが良い方ではありませんから、積極的にトリオの売り込みをした三波氏の大きな翼の中で庇護(ひご)されながら、何とか笑いの世界を生きている感覚がありました。ですから「こんな人間がこれからどうやって生きていくのかなあ」と寂しく、頼りない気持ちになったことは確かです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三波さんが亡くなった時(1982年末)、伊東さんは既に小松政夫さんとの活動で喜劇界で確固たる地位を築いていたと思われますが、ご自身ではこういう心境だったのですね。

このように思った理由を伊東さんは「芸能界はどうしたら売れるかを解き明かす公式が全くないんですね」と語っています。

どんなに人気があってもあっという間に忘れられ消えていくのが芸能界の常で、個人の努力ではどうしようもないのだそうです。

では伊東さんはこれまでどのようにして芸能界で生き残れたのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

理由は二つあるようです。

一つはだれかが見てくれているということだそうです。

伊東さんは次のような例を挙げています。

1968年の『朝日新聞』元日紙面で市川崑映画監督がてんぷくトリオの伊東さんを「私の好きな新進」と推薦してくれました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

またベンジャミン伊東として子供の人気を博しているときに、同業者の藤田まことさんには「シロちゃん, あんた大丈夫か? あれマジかいな」と心配されたけれど、作家の小林信彦さんは「あれは『ダリ』だ。すごい。シュールだ」と絶賛してくれました。

それにテレビマンユニオンの今野勉さんが、電線マンであることを知りながら、フジテレビ『望郷 日本初の第九交響曲~板東俘虜収容所物語』(1977年)にドラマの語り部として登場する巡査役を依頼してくれたこともうれしいことでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

ここから伊東さんは「他人のほうが自分のことをわかってくれて、自分が一番自分のことをわかっていない」と結論付けています。

伊東さんが芸能界で生き残れたもう一つの理由は、どんな仕事も誠意を尽くして、悔いのないように取り組んだことといえます。

たしかに自分で自分の評価は難しいので、自分より他人がわかってくれる=評価してくれる、と言えます。

でも他人が評価してくれるのは、自分が精いっぱい仕事に取り組んだ結果に対してでしかありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このことを伊東さんは次のように言っています。

人生で途方にくれた時、逆境とは思わず、試練と考えました。それを乗り越える絶対の答えはない世界だから、どんな仕事も誠意を尽くし、悔いを残さないように、と考えて来ました。

やはり伊東さんにも「人生で途方にくれた時」があったのですね。

そしてそれを乗り越えるには、出来上がった解答はないので、どんな仕事にも誠意を尽くし悔いを残さないようにする、つまり「手を抜かない」ということが唯一の対処法だったということです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そしてそのような対処法の根底には一つの基本姿勢が認められます。

「お天道様は見ている」というでしょう。確かにそうだと思います。考えてみると、怖い言葉だと思うんです。「人は死ぬまで仕事でも生き方でも手を抜けないよ」ということなんでしょうから。

 

「仕事」だけでなく、「生き方」でも死ぬまで手を抜けない、というところに伊東さんの人間性が伝わってきます。

伊東さんの場合、このような人間性の上に仕事が展開されてきたことがよくわかります。

伊東さんの役者・俳優としての長寿は、運や技術にあるのではないことを確認して、この項を終えます。

 

2.伊東さんの嫁は正体不明

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

伊東四朗さんの嫁さんについては確かな情報がありません。

一般人ということからなのでしょうか、写真も履歴も公表されていません。

後でも見ますが、次男の伊東孝明さんが誕生したのが1971年ですから、少なくともその2年前ぐらい、つまり1969年頃には結婚していたと思われます。

結婚したのは、伊東さんが市川崑監督に「期待される新進」と評価され、『てなもんや三度笠』のレギュラーになったころではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

伊東さんの嫁さんに関わるエピソードとしては次のようなものがあります。

当時住んでいた吉祥寺駅のそばでタフマンのCM撮影をやったことがありましてね。女房がたまたま通りかかって、人だかりをのぞきこんだら、派手な衣装を着た私と目が合っちゃった。

家に戻ったら、お父さんも大変ねって言われました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もう一つ伊東さんの嫁さんのお人柄をうかがわせる話は、上で見た仕事で手を抜かないということと連関しています。

女房に掃除を頼まれた時も手を抜きません。「あらそーお?」と言われるかもしれないけれど。

嫁さんに関する二つの話から、伊東さんと嫁さんとのほのぼのとした関係が浮かび上がってきますね。

そうすると連想を逞しくして、嫁さんの人柄を表現する写真が見たくなりました。

そう、昔伊東さんが出演したドラマでも嫁さんとの関係がほのぼのとしていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

これはNHK連続テレビ小説『ひらり』(1992年-1993年)の1場面です。

相撲部屋の親方を演じた伊東さんの嫁さん役はこの方でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はい、亡くなった池内淳子さんですが、この方だったら伊東さんの嫁さんのような軽妙なやり取りができますね。

伊東さんの嫁さんはこの方のようなイメージの方なのでないかと思いつつ、この項は閉じます。

 

3.伊東家の子供はみな芸能人?

 

 

 

 

 

 

 

 

伊東四朗さんと嫁さんの間には2男1女がいるという噂があります。

以下ではこの噂の真実性を確かめたいと思います。

その前に確認できることは、以下でも述べることですが、伊東さんの二番目の息子さんは俳優の伊東孝明(いとう・たかあき)さんです。

上の写真は、親子でテレビ朝日の『徹子の部屋』に出演した時のものです。

ですから、伊東さんのお子さんの一人が芸能人であることは確実です。

他の方がどのような人なのか調べてみたいと思います。

(1)伊東家の長男は一般人

伊東四朗さんの長男の方に関する情報はネット上には見当たりません。

一般人であるので、お父さんも情報を表に出さないようにしていると思われます。

長男の方が、もし双子であるなら、生年月日は、次男の孝明さんと同じ、1971年5月4日ということになります。

双子でなければ、生年は1970年以前ということになります。

学歴も分かりません。

年齢からしてすでに就職し、結婚もされていると思われますが、勤務先、結婚相手等に関しても情報はありません。

ただ女の子が一人いて、お祖父さんの四朗さんに溺愛されているようです。

ともかく長男の方は伊東四朗さんの信条、「何事も手抜きをしない」を幼少のころから教えられたと思われますので、立派な社会人として活躍されていると推察されます。

(2)次男は俳優の伊東孝明

 

 

 

 

 

 

 

 

伊東孝明さんのプロフィールを紹介します。

①戸籍名 :伊藤貴明

②生年月日:1971年5月4日

③出生地 :東京都

④身長・体重:175cm・65kg

⑤出身校 :千代田工科芸術専門学校演劇ミュージカル科

⑥所 属 :オスカープロモーション

1992年にタレントデビュー。

最初は父と同じサワズ・オルテ企画に所属していましたが、途中からオスカープロモーションに移籍しました。

芸名はデビュー時伊藤隆明で、ごく初期に伊東貴明に改名して長く活動し、現在は孝明に再改名して活動しています。

テレビドラマ、映画、舞台に広く活躍しています。

最近ではNHK大河ドラマ『真田丸』(2016年)で徳川方の武将本田正純役を演じて好評を博しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

父の伊東四朗さんとは、テレビ朝日『おかしな刑事シリーズ』(2003年-)、舞台『死ぬか生きるか!』(2018年)、CM「ヤクルト・タフマン」などで共演しています。

 

 

 

 

 

 

 

お子さんが3人(2男1女)いて、お祖父さんの四朗さんが猫かわいがりしているようです。

 

(3)伊東家に女の子は不在

 

 

 

 

 

 

 

 

伊東家には3人の子供がいて、3人目は女の子だという情報がネット上にはありますが、確たるものではありません。

上の写真は『おかしな刑事シリーズ』の1場面ですが、この二人の親子関係はあくまでも作品上の設定です。

羽田美智子さんは伊東さんの実の娘さんではありません。

フィクション上の親子関係が実の親子関係に取り違えられたと思われます。

あるいは次の写真も同じ類の誤解を生みだしているかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

沢口靖子さんは、重要であるが、ただの共演者です。

それなら伊東家には3番目の男の子がいるのかということになりますが、これも確認できませんでした。

したがって伊東家の子供は男二人ということが真実ということになります。

4.まとめ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

☆伊東四朗さんは現在も現役でテレビに出、舞台に立っています。

伊東さんがこれまで長年にわたって役者あるいは俳優として活躍してこれたのは、自分の全力をその都度の仕事にぶつけるという態度を堅持してきたからと言えます。

何事にも手抜きをしないという信条が伊東さんの演技の向上・拡大をもたらし、自分では気が付かない可能性を見る者に気づかせ、新た役どころにつながってきました。

 

☆伊東さんの嫁さんは役者・俳優としての伊東さんの大変さに現場をのぞいて気づいています。

淡々としているけれど、しかし深い理解に基づいたほのぼのとしたつながりが伊東さんと嫁さんとの間にはあるようです。

 

☆伊東さんは二人の男の子に恵まれています。

長男の方は一般人で既婚で女のお子さん1人をお持ちですが、学歴・勤務先等に関してはわかりません。

次男は俳優の伊東孝明さんです。

孝明さんは1992年にデビューして以来テレビ・舞台・映画など広い分野で活動し、次第に俳優としての成熟度を増してきています。

特にNHK大河ドラマ『真田丸』(2016年)での本田正純の演技は好評でした。

孝明さんには2男1女がいて、長男の子供とともに四朗さんの元気の源になっています。

 

以上伊東四朗さんの演劇観を中心に嫁さんとの関係、お子さんとのつながりについて見てきました。

気づかされたことは、伊東さんが仕事にも人生にも手を抜かずに全力でぶつかってきたということです。

これからも健康に留意して、後進に範となる仕事を続けていただきたいと思います。