1960年代に「高校三年生」など学園ソングで圧倒的な人気を誇った舟木一夫(ふなき・かずお)さん。その舟木さんは70年代以降十数年忘れ去られた状態にありながら、1991年頃復活を遂げ、現在は年中全国でコンサートを開くなど、再び活躍されています。今回は舟木さんがカムバックした理由を探るとともに、嫁さんがどんな人か、また息子さんがどうしているのかなど書いてみたいと思います。文体、敬称が統一されていませんが、ご容赦を。

1.舟木一夫の復活劇の背景

 

 

 

 

 

 

 

 

 

舟木一夫さんは、1963年「高校三年」で歌謡界デビューを果たすや、次々とヒット曲を発表し、高校生活をテーマにした学園ソングという領域を開き、当時の歌謡界の隆盛に貢献しました。

しかし、1970年代になると、時代の変化とともに歌謡界の様相も変化し、舟木さんの歌は余りもてはやされなくなりました。

その後三度ほど自殺未遂事件を起こすなどして、テレビの世界からは姿を消し、舟木さんの動向はマスコミによって報じられなくなり、舟木さんは過去の人と見なされるようになりました。

ところが1990年代に入り、デビュー30周年プレ公演を機にかつてのファンが舟木さんの良さを再認識し、人気が復活し、現在では全国で年中コンサートが開かれ、歌手としてだけでなく舞台俳優としても多くのファンを動員するに至っています。

この項では、プロフィールや経歴を確認しながら舟木さん復活の背景に迫ってみたいと思います。

 

(1)プロフィール

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここでは舟木さんの基本的事項だけ確認します。

①本 名 :上田成行(うえだ・しげゆき

②生年月日1944年12月12日

③身長・体重172cm・66kg

④出身地 :愛知県一宮市

⑤学 歴 :愛知高等学校を経て自由ヶ丘学園高等学校卒業

⑥事務所 :ホリプロダクション⇒第一共栄プロダクション⇒舟木音楽事務所⇒アイエス

⑦趣 味 :ペン収集、時計収集、コンピューターゲーム(特にドラゴンクエストシリーズを好む)

⑧受 賞 :第5回日本レコード大賞新人賞(「高校3年生」1963年)

第8回日本レコード大賞歌唱賞(「絶唱」1966年)

⑨NHK紅白歌合戦出場歴: 1963年第14回から連続9回出場。その後1992年第43回にも出場。

⑩発表曲数:1963年以来2018年7月現在118曲

⑪出演作品:テレビドラマ23作品

映画27作品。

⑫著 書 :『酔ってSINGER』(1983年、青山書房)

『怪傑!!高校三年生』(1992年、近代映画社)

『風来坊』(1999年、マガジンハウス)

 

(2)経 歴

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

現在までの半生を摘記します。

①デビュー以前

1944年 愛知県中島郡萩原町(現・一宮市)に生まれた。

父親は石川県河北郡津幡町の旧家の出でした(父・上田栄吉さんは1977年63歳で亡くなられました)。

1951年 小学1年生の時、父親が知人の借金の保証人になって経営していた劇場を手放さなければならなくなり、以後酒浸りの生活になったため、実の母親が愛想をつかして逃げ出した。

以後8人の女性が父のもとに出入りし、成行少年の母親役に付いたが、最後の女性が本当の母親のように愛情深く優しかった。

1957年 中学1年の時、13歳年下の弟ができ、家が貧しいため弟が成長できるには自分がこの家に金を入れなければならないと考え、学校卒業後自分の才能ですぐに稼げる世界に行きたいと思うようになった。

そんな時友人の家のテレビで歌謡番組を見て、自分の希望を満たすものはこれだと思い、歌手を目指すことになる。

1958年 中学2年生の時、父に頼み費用を出してもらい、名古屋市内の教室に通って歌唱のレッスンを受ける。

1962年 高校2年生の2月、地元CBCテレビの番組『歌のチャンピオン』に出場し、松島アキラの「湖愁」を歌い、チャンピオンになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

同年3月、名古屋市内のジャズ喫茶で開催された「松島アキラショー」で、松島アキラが、「湖愁」を一緒に歌う客を募ったところ、隣にいた同級生に手首をつかまれて手を挙げさせられ、自発的ではなかったが促されて舞台に上がって松島と一緒に歌った。

上田少年は、見事に松島と「湖愁」を歌い切ったので、偶然取材に来ていた『週刊明星』の記者が注目し、名前と連絡先を聞き、帰京後直ちにホリプロ会長の堀威夫に名古屋の出来事を話した。

興味を持った堀は、上田少年に電話で歌のテープを送ることを依頼、そして届いたテープを聞いて堀は少年の可能性を確信した。

同年5月堀は上田少年を上京させ、作曲家遠藤実のレッスンを受ける手はずを整えた。

こうして上田少年は愛知高等学校から東京の自由ヶ丘学園高等学校に転校し、遠藤実のレッスンを受け、芸名を舟木一夫としてホリプロからプロデビューすることになった。

 

②デビューしスター歌手に

1963年 6月5日舟木一夫は「高校三年生」(遠藤実作曲、丘灯至夫作詞)で歌手デビューした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

実際は舟木はこの年3月に高校を卒業していたが、遠藤実の指示でステージでも数年間学生服を着て歌った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「高校三年生」は発売1年で100万枚を売り上げる大ヒット曲になり、舟木は日本レコード大賞新人賞を受賞した。

デビュー2カ月後に本人が主演した同名映画もヒットし、舟木は一挙にスター歌手となり、NHK紅白歌合戦にも出場した。

誰もが憎めない顔立ちの、八重歯が印象的な少年だった。

続いて発売された「修学旅行」「学園広場」も当時の高校生を中心にヒットし、舟木は新曲を量産した。

1966年 舟木は、学園ものとは別に、詩歌や文学を題材にした叙情歌謡と呼ばれるジャンルでも、のびやかな美声を生かした歌唱力を発揮し、この年発表した「絶唱」は日本レコード大賞歌唱賞に輝いた。

以後この分野での曲は「夕笛」(1967年)、「初恋」(1971年)と展開された。

同時に舟木は1966年に始まったテレビ時代劇『銭形平次』の主題曲「銭形平次」も歌い、自らも9回ほど出演している。

こうした活躍から、同じころデビューした橋幸夫西郷輝彦とともに「御三家」と呼ばれるにいたった。

 

 

 

 

 

 

 

 

3者いずれも歌だけでなく、映画、テレビ、舞台で広い支持を得た。

特に舟木の場合、父が経営していた劇場にかかる時代物を幼少のころからよく見ていたので、時代劇には親近感を持っていたと思われる。

③低迷期

1960年代には人気を誇った舟木だったが、70年代に入ると数多く登場していた歌謡映画がすたれ、歌の世界も若者の間ではグループサウンズ、ロックやフォークソングが流行し、演歌調歌謡曲は斜陽化していった。

この結果舟木の広い場面で活躍する機会は減り、少数の舞台と地方公演が主な活動の舞台となり、収入も激減した。

そのため莫大な借金を抱え、自宅を売却するなどしたが、経済状況は改善せず、金銭面の苦境から1970年、1971年、1972年に自殺を図ったが、いずれも未遂に終わった。

この当時舟木はのちに嫁になる紀子さんと婚約していただけに世間的に大きな反響(疑問あるいは反感)を呼んだ。

1973年には心身の不調のため翌年まで10カ月間静養することになる。

この静養には可愛がっていた年の離れた異母弟が死去したことも絡んでいた。

1974年 4月29日に舟木はかねて婚約していた紀子さんと結婚式を挙げる(29歳)。

1980年 12月9日長男が誕生する。

だが舟木の不遇の時代は20年近く続いた。

1984年以降6年間、シングルレコード1枚すら出すことができなかった。

舟木は『徹子の部屋』(テレビ朝日、2018年8月21日放送)で黒柳徹子を相手に当時を「寒い時期」と呼んで次のように回想した。

 

 

 

 

 

 

 

 

お金がなくてマネージャーを雇えないので自分で編集したカラオケテープと衣装を持って一人で温泉場や健康ランドに営業に行きました。

営業先でアイロンとアイロン台を用意してもらって自分でステージ衣装にアイロンをかけました。

 

「寒い時期」を耐えたことによって、舟木に春が再びめぐってきた。

 

④どん底からの復活

1990年 7年ぶりに新曲「落日のあとで」「風のワルツ」を発売する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自らの実人生の心象風景を落ち着いた大人の声で表現した。

1991年 デビュー30周年プレ公演を機に、中高年女性のアイドルとして舟木の人気が再燃する。

その中で舟木は「同じ青春を過ごした仲間にしか通用しない歌い手でいい」と自分の立ち位置を明確にしている。

1992年 年末1971年以来21年ぶりにNHK紅白歌合戦に出場、「高校三年生」を熱唱し、過去を知る視聴者に感銘を与えた。

1997年 歌手生活35周年記念として念願であった新橋演舞場での座長公演をはじめて行う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1999年 中日ドラゴンズ応援歌「燃えよドラゴンズ!’99」を歌い、25年ぶりにオリコン40位ランクインを記録する。

舟木自身愛知県出身者としてドラゴンズファンを自任していることはよく知られている。

2004年 還暦を迎え、赤色の学制服を着用してヒット曲「高校三年生」を歌う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2007年 デビュー45周年を迎え、記念コンサートを行う。

上記『徹子の部屋』では

60代半ばになって、歌が好きだということに気が付きました。それから歌を歌うことが楽になりました。

と述べている。

2016年 『銭形平次』主題歌に対して「第一回あらえびす文化賞・特別賞」が授与された。

2017年 12月芸能生活55周年「舟木一夫特別公演」(東京・新橋演舞場)では『忠臣蔵』を演目とし、大石内蔵助を演じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

以上のように舟木一夫は70歳を過ぎた現在もテレビやコンサート、舞台で精力的に活動し、幅広い層から根強い人気を集めている。

 

(3)舟木一夫復活の要因

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

舟木一夫さんが「どん底」から復活できた要因はいくつかあると思います。

ここでは大きく3つだけ挙げてみます。

①時代体験を共有するファンの存在

舟木さんが最初に登場し、人気を爆発することができたのは、同世代の人々、特に舟木さん自身より2,3歳下の世代、いわゆる団塊の世代の人々の心情的支持があったからです。

これらの人々にとって舟木さんの歌の内容はいわば自分たちの日常生活でした。

この支持層は確かに70年代になって、音楽的には分解し、GS,ロック、フォークなどの愛好者になったかもしれませんが、60年代前半から後半にかけて舟木さんの歌に共鳴した部分は心情の根幹を形成し、いつでも感応しうる状態にありました。

このことは今でも「高校三年生」が団塊世代を中心とする中高年層の飲み会などの定番の愛唱歌であることからも理解できます。

舟木さん自身、「寒い時期」に歌手廃業を意識し、もう一度だけ歌って歌手をやめようと思って立ったステージで、思いがけず聴衆から「頑張れよ!」という激励の声をかけられ驚いたという体験を述べています。

そして次のように考えたと続けています。

自分あってのお客さんではなく、お客さんあっての自分ならば、彼らのために歌い続けるべきでないのか?

こう考えた舟木さんは、同じ風景の中を歩いてきた同世代のファンのために一生歌い続けることを誓った、とある箇所で述べています。

②舟木さん自身の歌手としての自覚の確認

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

上の言葉にも表れていますが、舟木さんの復活の背景には、舟木さん自身が歌手としての自分を今までとは異なる目線でとらえるようになったことも大きな要因としてあると思います。

形式的に言えば、自分中心の歌手から客中心の歌手への位置づけの転換と言えますが、内容的にはもっと深刻なものがあります。

舟木さんは別のところで、自分を「芸人」あるいは「はぐれ者」という自覚のもとに生き直していると述べています。

芸人とは芸事を生業とする者のことですが、「芸事」とは舟木さんにとっては単なるメシの種となるパフォーマンスを指すのではありません。

芸事とはお客さんの前で命を削る行為だ。

つまり舟木さんは「寒い時期」に「命を削る行為」として歌に取り組み、その結果として歌手として復活できたということになります。

ですから現在の舟木さんの歌手活動からは「命を削る行為」という真剣さが伝わり、それが聞く者、見る者の共感、感動につながっているのです。

すごいことです。舟木さんには「永遠の若者」として歌い続けてもらいたいと思いますが、歌うことによって命を削るなら、命がいくつあっても足りないことになります。

これは冗談ですが、私たちは舟木さんの復活の背後には命がけの歌に対する取り組みの転換があったことを知っておくべきなのです。

③家族の献身的な支え

 

 

 

 

 

 

 

舟木さんはあるメディアに連載した『歌に抱かれて』という半生記において、「寒い時期」の生計は嫁さん任せで、自分では一切触れないことにしていた、と述べています。

生計に触れることは生活臭を身につけることで、そうすると「舟木一夫」がまったく立ちいかなくなる、のでそうしたそうです。

そしてその時期、ギャラの7割は嫁さんに渡していたが、1年のうち250日は仕事がなくて生活できる収入にはつながらなかったとも書いています。

舟木さんには、一種芸術至上主義的なところがあることがわかります。

自分では命がけで自分の芸を磨くが、生活の支えになる金稼ぎはある程度にして、足りない分は嫁さんに任せるという姿勢がはっきりしています。

身勝手と言えば身勝手なのですが、いつか借りは必ず返すからという強烈な自負も背後には透けて見えます。

嫁さんは大変だったでしょうが、嫁さん(および嫁さんの実家)の献身的な支えによって舟木さんは復活できました。

借りも返したのでしょう。

家族、具体的には嫁さんの支えがあって舟木さんが復活できたことを確認して、舟木さんの嫁さん自身に話を移しましょう。

 

2.舟木一夫の嫁は仙台の資産家の出

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ネットで「舟木一夫 嫁画像」で検索すると、女性と写っている舟木さんの写真が数枚出てきますが、その女性が舟木さんの嫁さんなのかは第三者にはわかりかねます。

しかし、1枚だけは間違いなく嫁さんの写真があります。

上の結婚式の写真です。

舟木さんが選んだだけあって、美形ですね。

上にも記したとおり、結婚式は1974年4月29日に挙行されました。

舟木さんが29歳の時のことです。

では嫁さんがどういう方なのか簡単なプロフィールを掲げてみます。

(1)舟木嫁のプロフィール

 

 

 

 

 

 

 

 

①名 前 :上田紀子(うえだ・のりこ)

②生 年 :1951年

③出身地 :宮城県仙台市

④最終学歴:宮城学院女子大学音楽科

 

名前は現在の戸籍名で、旧姓はわかりません。

生まれた年は大学を卒業した年に結婚したという話に基づき、舟木さんとは7つ違いということで推定しました。

ただし、名前、出身大学はネット上の情報に依拠しています。

さらにネット上の情報ではブラッド・ピットの大ファンだそうです。

出身地が仙台であることは、次の「出会い・馴れ初め」から明らかです。

またご実家が資産家ないしは裕福であることは、前出の『歌に抱かれて』の中で、舟木さんが「寒い時期」に実家のお母さんが娘の生活を心配してたびたび上京してきたと述べていることから察せられます。

(2)出会い・馴れ初め

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

出会い・馴れ初めについては、前記の『歌に抱かれて』においてかなり詳しく書かれています。

要点だけ記します。

出会いは結婚の7年前の昭和42年(1967年)の初め仙台公演を彼女が見に来てくれて、公演後恒例のファンとの交流会では最前列にいて、舟木さんは「あ、オレのタイプ!」と思ったが、その時はそれで終わりました。

その時彼女はまだ中学3年生でした。

翌年(1968年)東京で再会しました。

彼女の父方のお墓が東京にあり、家族そろって墓参した後、ちょうど明治座公演をやっていたので、それを見に来て、公演終了後後援会の人に案内されて楽屋で会いました。

その時舟木さんは「オレは彼女と結婚するかもしれない」と思い、初めて名前と連絡先を聞きました。

しばらくして仙台で仕事があり、舟木さんが彼女を呼び出して「ひょっとしたらあなたを嫁さんにもらいに来るかもしれない」と言ったところ、彼女は驚いて返答に困ってしまった。

以上が舟木さんの嫁さんとの出会い・馴れ初めです。

この後の展開を舟木さんは書いていないみたいです。

でも、高校1年生ぐらいで、「あなたを嫁さんにもらいに来るかもしれない」など言われると誰だって驚いて困ってしまいますよね。

この後嫁さんは仙台で高校を卒業し、宮城学院女子大学に進学し、そこも卒業して舟木さんと結婚したのです。

出会いが結婚の7年前ということですから、嫁さんは大学を卒業してすぐに結婚したので、職歴などはありません。

 

(3)現在の舟木夫妻

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

舟木夫妻は結婚して間もなく45年になります。

嫁さんは「寒い時期」を懸命になって舟木さんを支えて来ました。

舟木さんもそ知らぬふりして嫁さんが生計を支えてくれたことに感謝していたことは『歌に抱かれて』に表現されていました。

あるいは嫁さんに対する思いは子供が誕生した時の感想にも表れています。

だいたい、この野郎、オレの嫁サンを十カ月余りも占領した上に難産の憂き目にあわせ、最後は切腹にまで追い込むとは親の仇も同然。

この文章は1983年に刊行された『酔ってSINGER-青春病大騒ぎ』というエッセーの一節です。

この文章では冗談ぽっく子供の誕生を喜びながら、嫁さんの健康が心配であったことも語り出されています。

このような嫁さんに対する舟木さんの配慮は、この時だけでなく、現在も続いていると思われます。

まごころ」という曲は1977年に発表された、比較的古い曲ですが、この曲は舟木さんの嫁さんに対する感謝を表明したものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして舟木さんは、この曲を繰り返しコンサートで歌い、コンサートの記録にも収録しています。

そこには直接面と向かっては言わなくても舟木さんの嫁さんに対する感謝の気持ちが現れています。

 

嫁さんは結婚前も、結婚してからも「どうなるのかしら」と不安に襲われたことも何度かあると思いますが、現在は穏やかな日々を過ごせていることでしょう。

そして舟木さんと結婚してよかったと思っていることと推察されます。

 

3.子供は本人の意志で歩ませる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1980年12月9日に舟木一夫さんの第一子が誕生しました。

上で見たように難産でした。

 

男の子でしたがという名前が付けられました。

帝王切開だったもようで、顔立ちがしっかりしていて、利発そうな顔つきをしていますね。

当時舟木さんはまだどん底状態から這い上がれていませんでした。

しかし、上で挙げた『酔ってSINGER』の中である決意を披歴しています。

オレの方はどうせ生涯、風来坊に決まっている。オレはオレで、”純”は”純”。

俺の歩く道に文句は言わせないし、“純”が選ぶ道に、口は一切出さない。お互い五分だ。

お互いに自分の進む道を自力で見つけて、あくまでもその道を歩み続けよう、という呼びかけですね。

ここには自主的であれ、そして自立的であれという舟木さん基本的な教育方針が示されています。

 

(1)チャレンジ精神を培え

 

 

 

 

 

 

 

 

この写真は舟木さん親子が「風雲たけし城」に出た時のもので、1987年4月に放送されたと言われます。

この番組には純君が出場したいということで一般参加したようです。

舟木さん親子は、たけし軍団との闘いまで進んだ3組の中の1組になったものの、最後の戦いに負け、敢闘賞に終わったそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここで思い起こされることは、『徹子の部屋』で舟木さんが「42歳頃がどん底でした」と述べていたことです。

このような番組に一般応募で出たら好奇の目にさらされるので、本心は嫌だったのかもしれませんが、子供の意欲を高め、チャレンジ精神を高めるためには、子供の出たいという気持ちを最大限尊重すべきだ、と舟木さんは考えたのでしょう。

舟木さんらしい決断だったと思います。

 

(2)男同士の約束は守れ

 

 

 

 

 

 

 

ネット上には、舟木一夫さんは息子の純さんに「男同士の約束は絶対に守れ」と教育してきたことが紹介されています。

具体的には純さんが小学4年生の時に欲しいものとして「自分の部屋」を挙げたのに対して、舟木さんが「あと2年待てるか」と言い、実際2年後、中学受験を控えた純さんに部屋をプレゼントして身をもって「男の約束」を果たしたというものです。

純さんが小学4年生のころは、1990年前後で、舟木さんはそろそろ自分のどん底人生も終わりを迎えつつあることを実感できたのではないでしょうか。

6年間ストップしていた新曲発表は1990年から再開され、1992年には21年ぶりにNHK紅白歌合戦に出場しています。

紅白に出れたのはその年それなりの歌手としての実績があったからで、純さんに部屋をプレゼントしたのはこの年だと思います。

ここで注意したいのは、舟木さんがお子さんとの約束を果たせたのは上で見たように、歌手としての自分の在り方を鋭く問い直した結果であって、ただ約束を実現できたということとは違うということです。

「約束を守れ」と言うことはたやすいことですが、舟木さんは同時にどうすれば約束を守れるようになるかということまで、純さんに暗黙の裡に教えたと思われます。

その点を見過ごすと、「約束を守ること」はただのお題目で終わってしまいます。

 

(3)親と子供は別の人格

 

 

 

 

 

 

 

上で見たように、舟木さんはお子さんが生まれた時から、「オレはオレで、”純”は”純”」という態度を示してきました。

そこには干渉や強制を排し、独立した人格としてのお子さんの自主性を尊重するという精神が認められます。

だから舟木さんは「ウチの息子は…」式の息子自慢は一切しないようです。

息子さんも「うちの親父は舟木一夫だ」などとは言わないのでしょう。

ネット上では舟木さんの息子さんが、慶応大学を卒業して一流企業に勤めている、もう結婚しているはずだ、などのうわさが流れていますが、確実なことは一切わかりません。

舟木さんが『徹子の部屋』で息子さんとの関係について語ったことは「互いに忙しいので、会うのは半年に一度くらいですかね」ということだけでした。

さっぱりしていて、お父さんも息子さんも気持ちいいですね。

4.まとめ

 

 

 

 

 

 

 

 

☆舟木一夫さんは20年近いどん底生活を送る中で、聞き手を重視する歌手になる必要を感じ、歌を歌うことを、聞き手の前で命を削る芸事ととらえるようになりなした。

その結果現在では天性の美声で多くの聞き手の感性に共鳴する歌曲を提供し、支持を広げています。

 

☆舟木さんは嫁さんとは嫁さんが中学3年生の時に出会い、交際をつづけ、嫁さんが大学を卒業して間もなく結婚しました。

舟木さんのかなり長い「冬の時期」を嫁さんは支え続けました。

現在は穏やかな日々を送られていると思われます。

 

☆舟木さんの一人息子の純さんは、慶応大学を出て一流企業に勤めているという噂がありますが、正確なことはわかりません。

舟木さんからは独立心を貫くことと約束を守ることの重要性を教えられているので、優れた社会人として活躍されていると思います。

 

最後に、舟木さんの経歴や考えを調べ直して、「寒い時期」を乗り越えたやり方、嫁さん対する感謝の仕方、お子さんの育て方に敬服しました。

今後もお元気で素晴らしい歌声を日本中に届けていただけることを期待しています。